「○○してくれたから」の損得の感情と勘定
「○○してくたから○○してあげる」
「○○すると○○が手に入るから○○する」
人と話したりする時に、みんなも、自分もこんなことばっかり考えている気がする。
他人に対する善意がどこにあるのかわからないけど、誰に何をしても、見返りを期待してしか行動できない自分になっているのが嫌だなって思うことがある。
ときおり聞こえてくる「○○してあげたじゃん!!」って言葉が胸にささる。
そっと冷めた瞬間。
子供の頃から
「テストでいい成績とったらゲームを買ってあげる」
「お風呂掃除したら、おこずかいあげる」
って言われて育った。物質的な見返りを求めて行動するように育った。
いつのまにか得られる見返りが分かるモノにしか、行動出来なくなっている。
思考が不自由になっててるんだ。
人間なんだからそれが当たり前じゃん。何言ってるの?って思う人もいると思う。
でも、その法則が好きな人や、好きな物にまで、適応されてるのは悲しいことな気がしてる。
ギターなんて食えないよ。やっても意味ないよ。
好きな人にさせえも見返りのある善意しかだせないんじゃないんだろうかって思う。
その人がすごい好きで、その人のために、やってるのに、何処かで感謝されること願って、もしくは物質的な見返りを期待してる。それが叶わない時に浮き出る「○○してあげたのに・・・・」
なんか、違うんだよ。って
ちゃんと「人」と向き合いたいなって思う。
のでした。
でも上手く行かないのです。
※追記
「善意」とか「好意」とか言葉を使ったけども、自分に向かっている矢印を
自分から別の誰かに向かえればいいなって事です。
それがなるべく、歪みなく淀みなく、納得のいく方法で。って事です。
よく、こんな意味のわからんことを歌詞にして、歌っておるけど、
歌う事そのものが自分にしか向いてない のは矛盾なのかもしれませんね。